閔妃とは

閔妃(ミンビ、びんぴ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃[1]。尊号は孝慈元聖正化合天、諡号は明成太皇后なので、孝慈元聖正化合天明成太皇后となる。韓国では明成皇后、中国では 朝鮮王后(閔氏)または明成皇后と呼ぶ。ただし李氏朝鮮閔妃死亡時(1895年)、大韓帝国(1897年建国)にまだ移行しておらず、閔妃は皇后になっていない。

「馬鹿な北条政子」「女・金正日
旦那の高宗がおとなしいのを良いことに、好き勝手やって経済をボロボロにした馬鹿女。
民衆が生活苦で苦しんでいる時に、住居にガス灯を設置、怒った民衆にガス灯を全て破壊されたというエピソードが残っている。
その時々で外部勢力にころころ阿り、混乱をさらに混乱させる天才であった。
日清&日露戦争の元凶である。
国家経済を破壊し、亡国の礎を築いた馬鹿女だったため、半島では長らく国賊扱いだった。

閔妃殺害に関する証言**

「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言
1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))

「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)

「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)

「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會
(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)

「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀
(ゲ・デ・チャガイが編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言)

           首謀者から実行犯まで、全部朝鮮人

閔妃が悲劇のヒロインになった経緯**

・1982年、檜山良昭が小説「ポンパドール侯爵夫人殺人事件」において
       「閔妃を殺したのは日本人」という「推理」を行う。
・1988年、角田房子が「檜山推理」を基に、小説「閔妃暗殺?朝鮮王朝末期の国母」を執筆、
       国賊閔妃を「悲劇の王妃」とする、ファンタジーを流布させる。
・2001年、韓国KBSが角田の「閔妃暗殺」を「明成皇后」として連続ドラマ化
       (このドラマで国賊が『悲劇の美しき宰相』と捏造され、事実認定される)
       韓国人・金辰明が「皇太子拉致事件」を執筆、
       角田ファンタジーを基に「チョッパリ(朝鮮人による日本人の別称)が閔妃を死姦したニダ」と記述
・2005年、河野龍巳と家入恵子が渡韓、事件発生から110年記念謝罪
       (熊本県教組『明成皇后を考える会』発案)
       閔妃の子孫「んなもんいらんニダ、日本政府が謝罪汁」
・2008年、10月8日(閔妃命日)、突如北朝鮮が「113回忌」を名目に日本に謝罪&賠償要求
・2009年、8月24日、TV朝日が報道ステーションで2005年の謝罪場面を突如放送
       民主党勝利を確信しての、「2010年日韓併合100周年」での『鳩山談話』への布石と思われる 。